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メロンクリームソーダ

前の住処:imatanblr.tumblr.com

何をしたって最後は死ぬ

ここ1年半ちょっとtumblrを使ってたけど、なんとなく肌に合わなかった気がしたので。

 

気がついたら東京に来てから9ヶ月が経とうとしている。上京して何ヶ月、と数えなくなったのはいつからだろう。そして思い返すと多分、そうして数えることをやめたあたりから日々の記憶があまりない。悲しい。毎日がもみ消されているような気持ちになる。このまましわしわになるまで働いて、死に際に私は何を喜ぶのだろう。夜の6畳の狭い部屋の中で本を読んだり音楽を聴いて泣いたりキーボードを弾いたり詩を書いたりして、それが何になるのだろう。わたしは普通ではないのかもしれないという自覚がなんとなく芽生えていながらも、それが突出した才能ではないこともわかっていて、完璧主義の自分がさらにそれに拍車をかけて、一度それを放ってみる勇気すらない。心が強くないくせにここまで内側に負が蓄積して死なないの無駄にしぶとくて笑う。

 

「私は私 他人は他人」的思考だから良くないのだと指摘された。あれ。むしろそれは私がなりたかったもの、そして今もなりたいものだったはずなのに。

 

そもそも「私は私」という思考が今の私にあるのなら、全てにおいてこんなに過剰に悩むことも凹むことも無いだろうし、もっといろんな表現ができているはずだ。みんなができることくらい自分もちゃんとできたいって思ってる。でもそれを行動に移そうとすると普通の人の何倍もの労力がかかるうえに上手くいかない。なぜ出来ないのかと言われても22年かけて出来上がった性格が今更変わるだろうか。すぐにできるようになるだろうか。

 

学校に行かなきゃと思っていてもどうしても家の扉を開けられない人がいる。1日ちゃんと授業を受けなきゃと思っていてもどうしても保健室に行かないとうまく息ができない人がいる。私だってそれと同じだ。頭では痛いほどわかっているのにどうしてもできないことがある。でもそれは簡単にはみとめてもらえない。

 

間違って出来ないことを選んでしまったのなら出来ることを探して住み替えれば良い。でもそれすら。それすら猛烈な労力と時間を使う。生きるのはなぜこんなに難しいのか。最近の口癖は 生きるの難しい〜。

 

私は私、という意識は自己防衛か。個性だなんだと言っても所詮同じ形の箱になんとなく違う雰囲気のものを入れているだけで、例えばその箱の形を変えようとしたり、もう箱要らなくね?みたいなことを言い出したらそれは個性ではなくておかしい奴になってしまうのか。

 

プログラミングされた機械のように日々を浪費してゆく恐怖。ルーティーンなんてものは要らなくて1日1日をどうにかいい感じに丸め込みたい。はみ出したまま部屋の端っこで忘れ去られて綿ぼこりにもなれずに消えていった生活に日の目を見させてあげなきゃ何のために傷ついてきたのか泣いてきたのかわからない。

 

自己表現が苦手な自分が自己表現の世界に飛び込みたい理由なんてそこに生じる苦しみよりも好きな気持ちがあるからだ。振り切るためのあと一歩をどうにか、どうにか、踏み出したい。自分で自分の背中は押せないけれど、押してくれそうな人や場所を探すことならできる。どうにか。どうにかしたい。ちゃんとしたい。