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メロンクリームソーダ

前の住処:imatanblr.tumblr.com

"普通に生きている"という奇跡

7年目に寄せて

 

東日本大震災から6年が経ち、7年目に入りました。

あの日高校2年生で、高校で模試を受けていた私は無事受験を終え、大学を卒業し、社会人になりました。いま無職ですが。しがらみポイズン。

 

当時私自身は学校にいたので怪我もありませんでしたし、周りに同級生のみんなもいたのでだいぶ安心でした。もちろん帰れない人は学校に残してもらえましたし。家族の無事もその日のうちに確認が取れましたし、自宅もぐちゃぐちゃにはなったものの大きな損壊はなく、津波の直接的被害もギリギリ受けませんでした。

 

地元の学区には海に面していたところもあって、家が流されてしまったり、浸水で大変なことになった友達も沢山いました。親が漁師で海の近くに住んでいた親友は家も飼い犬も教科書も卒アルも制服も思い出の寄せ書きも全部流されてしまいました。

 

同じクラスになったことはなかったけれど、同級生も数人亡くなりました。後々、亡くなったある同級生の卒業文集を見たことがありました。「10年後の自分へ」というテーマで全員が書いたのですが、その人は「何をしているかは想像できませんが、僕は普通に生きていると思います。」といった内容のことを書いていました。それを読んで涙が止まりませんでした。

 

明日は必ず来るけれど、明日に自分が存在している保証なんてどこにもない。それなのに私達は明日に自分が存在していることを疑わない。"普通"に生きていく、ということは"普通"じゃない。そもそも"普通"って何なんだ?確率論の話?なんてことをその時から考えるようになりました。

 

 

自分の周りだけでもこんな過酷な状況におかれている人が沢山いて、さらに福島では津波の被害もなく家もそこにあるのに、原発放射能で生きているうちに故郷に帰ることも許されない人もいたり、情報が入れば入るほど、自分なんて「被災しました」って言っていい立場なんだろうか、と思うこともありました。

 

でも、年を重ねて毎年この時期が来るたびに改めてその当時を思い出すと、本当に気が狂いそうな環境だったし、津波の映像も時間が経てば経つほど見るのが辛くなってゆきます。

 

これはわたし自身がちゃんと経験したことで、忘れてはいけないし、というかそもそも忘れられないし、先の世代にも必ず伝えていかなきゃいけないことだと強く思います。

 

 

 

"あの日"のこと

 

確か周りの学校は春休みに入っていた。私の高校はまだだったのか特別登校だったか忘れたが、模試があったので登校していた。午前から何教科か受けて、14:30くらいから最後のアンケートみたいなマークシートを塗りつぶしていた。プレッシャーから解放されてリラックスした雰囲気で、シャープペンの音だけの静かな時が流れていた。

 

14:46

 

ものすごい地鳴りがした。ただならぬ恐怖感だった。とんでもないことが起きる予感しかしなかった。そして悪夢のような時間がやってくる。

 

長い、長い、本当に長い時間に感じられた。冗談抜きで、本気で「死」が頭に浮かんだ。高校が崩壊して、みんな一緒に死んじゃうんだって、本気で思った。

 

揺れがようやくおさまって、校庭に出ろと言われた時、生まれて初めて腰が抜けて立てなかった。隣の席にいた友達がいつになく強引に私の腕を掴んで「行くよ!」って引っ張り上げてくれた。何が何だかわからなくなっていた。

 

校庭に出たはいいが、その日に限ってとても寒くて、挙句雪まで降ってくる。安否確認がすぐ出来たことは学校としても安心だっただろうが、電気も止まっているし、電話もネットも回線がパンクしているし、地震に関連した情報は何も入らない。もちろん津波なんて知る由もなかった。高台の高校だったのが本当に救いだった。

 

何度も電話をかけてやっとお父さんに繋がって、ブツブツいう電波の中で家族の無事を確認して、とりあえず学校にいろ、と言うところで突然切れてそれっきり繋がらなかった。

 

先生も情報が無かったので、徒歩や自転車で帰れる生徒には帰宅許可を出した。それで帰った友達もいたが、帰った直後に津波警報を知りマンションに登り、結果その目で津波を目の当たりにすることになっていた。帰った同級生の中で死者が出なかったのは本当に奇跡だと思う。

 

電車がないと帰れる距離でない私は高校に泊まることになる。寒いしどんどん暗くなる。電池わずかのガラケーワンセグが奇跡的に繋がる。津波の映像が中継されていたが、画質も荒れているし、何より津波がどういうものかわかっていなかったので、何が起きているのかよくわからなかった。そしてすぐ画面がフリーズした。

 

薄暗く寒い教室で、親と連絡のついた中学からの友達が「家、流されちゃった…」と呟いた時、なんて返したらいいかわからなかった。

 

夜はセミナールームのような教室に学年ごとに泊まることになった。ロウソクを立てたり、あと野球部がトレーニングしながら発電?するなんかそういうやつをやってたらしくて、そういうのを使って照明をつけたりした。ご飯なんて当然なくて、先生たちがなんとか集めてきたお菓子を少しずつ分けた。ぽたぽた焼を一袋だけ食べた。当然足りなくて、先生同伴で荒れ果てた部室に行って、そこからたまたま部員が置いていた飴やゼリーの駄菓子を回収して、みんなに回した。部室に行く時少し外に出るのだが、灯りひとつない夜の星空はすごく綺麗でたくさんの星が見えた。生徒指導の厳しい先生もその時ばかりは「すごいなぁ…」と笑っていた。

 

余震はずっと続いていて、近くにある工場では結構大規模な火災が起きていた。教室からも渦巻く火が見えるほどだった。爆風でガラスが揺れるたびに怯えていた。

 

教室は人数に対してどう考えても狭かったが、いつ何が起きるかわからない中これ以上教室を分けることもできず、そこで眠ることになった。みんなが横になろうと思うと当然無理がある。何人か眠たそうにしだすと、男子たちがさりげなく壁際の積まれた椅子の上に座ったりストーブの周りを開けてくれたりしていて、その優しさにすごく温かい気持ちになった。私も膝掛けをかけて、少しだけ横になった。

 

浅い眠りの中、世界史の先生に声をかけられる。

 

「お父さんが迎えに来てるぞ」

 

エッ、と思いつつも安心した。

一方いつ帰れるかわからない友達を置いて帰ることに後ろめたさも感じながら、全員早く帰れるといいね、と話して昇降口へ向かう。

 

その世界史の先生と私のお父さんは中学の同級生だったらしく、まさかのタイミングで再会を果たすことになった。苦笑いしつつも、「お気をつけて」と高校を出る。

 

町中の電気が完全に消えて、信号もない道は本当に真っ暗で、知らない場所みたいだった。お父さんはある程度津波の情報も得ていたらしく、道を選んで無事家付近まで戻ることができた。避難所になっていた近所の児童館に行ったが、翌日、数本前の道路まで津波が来ていたことを知る。体育館に避難していた家族と合流し、近所の幼馴染家族と夜を明かした。動かなくなった冷蔵庫から転げ落ちていたという冷食の大学芋を少しずつ食べた。

 

翌日、号外が配られる。白黒の一面にたしかでっかく津波の写真が載せられていたけれど、なんだか現実のものと思えなかった。というか、もはや何が起きているのかよくわからなかった。

 

こういう時のための地域の避難訓練には親に連れられてよく参加していて、その時にいわゆる"アルファ米"という非常用ご飯を試食したりしていたので、そういうのが配られると思っていた。

ただ、備蓄が人数に対して圧倒的に足りていなかった。何やらおにぎりのようなものも配られていたが私たちのところまでは届かなかった。

そういうのを取り仕切ってやっていた人たちが、自分の家族や親戚に優先的に渡しているのが見てすぐにわかった。私たちのところに回って来たのはわずかなスナック菓子だけだった。

 

自宅の中は当然荒れに荒れていて、とてもすぐには帰れる状態ではなかったそうだ。わたしも家の片付けに行きたかったが、余震もずっと続いているし、危ないからと言われ、児童館に残り弟や幼馴染とひたすらトランプやウノをして時間を潰していた。

 

2日ほど児童館に泊まって、私も幼馴染家族も自宅に戻った。片付けられたと言ってもそれでも家の中は酷い状態だった。水道だけはかろうじて生きていて、トイレは使えたが、窓がないので使うたびに懐中電灯。いつ止まるかもわからないのでお風呂やタンクに水を溜めた。

 

電気もガスもないし、とにかく寒い。スウェットや部活のジャージ、ウィンドブレーカー等々5.6枚の重ね着をして、いつでも逃げられる服装にしていた。携帯はとっくに電池が切れていて使い物にならない。お菓子やカンパンで食いつないで、昼間は相変わらずトランプをしていた。一休さんのルールをアレンジしまくって訳のわからないルールでやって笑っていた。一人っ子じゃなくて良かったと思った。ラジオで流れるアンパンマンの歌にも励まされたりした。

 

余震は朝も昼も夜もひっきりなしで、特に夜は真っ暗で本当に怖かった。疲れなんて取れる訳なかった。夕飯、っぽいものを食べても8時くらいにはもうやることもないし、ロウソクも勿体ないしで寝ていたのだけど、地鳴りがするたびに恐怖で飛び起きていた。

 

自宅に戻ってからは、食料集めをしなければならなかったが、当然スーパーも薬局も100円ショップも開いているわけがない。それでも、開くかもわからない店の前に朝から行列ができた。やることもないし、あてもなく私たちも並んでいた。ありがたいことに、本当に限られた商品だけではあるものの、店員さんたちが頑張ってくれて少しずつ、少しずつ、最低限の日用品や食料は手に入った。

 

たしか4日目くらいでガスが復旧した。これでなんとかお湯も沸かせるようになったので、カップ麺も作れた。夜は懐中電灯係が照らす中でお母さんが野外炊飯のごとくコンロでご飯を炊いてくれたりした。あんなに美味しい白ごはんは初めてだった。

児童館の方でも炊き出しが始まっていて、そこで豚汁や丼ものをいただいたりもした。

 

お父さんは電気機器系統に強くて、車用のバッテリーになんかコードをつないだり色々して、携帯を充電できるようにしてくれた。DVDプレーヤーのワンセグでテレビを見られるようにしてくれて、そこでようやくいろんな情報をカラー映像で得られるようになり、今ここで何が起きているのか、海辺がどれだけ悲惨なことになっているのかを知っていった。ポポポポーンのCMは最初こそ和んだが、正直だんだんキツくなった。

 

1週間弱経って、うちから5分ほどの距離のところまでは電気が復旧しているようだったが、なかなかうちの近辺までは来なかった。髪など当然洗えるわけもなかったので、バリバリだった。とりあえず3日すぎるともうだいたい同じ感じになる。ヘアゴムほどいても髪の形変わらないくらいバリバリになる。

ここでお父さんが奇跡的にガソリンの補給に成功する。お母さんの実家は井戸水を使っていて、薪でお風呂を沸かしていたので、とりあえずお風呂に入ろう!となり、車で山の方にある母の実家へ向かい、サッパリさせてもらった。入った瞬間に震度4くらいの揺れがあって、お母さんと全裸でうろたえた。

 

その日の夜、暗闇の自宅へ戻る道を走っていると、いつもの街灯の明かりが戻っていた。もしや?!と期待して家に帰ると、電気がついた。眩しかった。大歓喜だった。ちょうど1週間経った日のことだった。

その辺りからお店も少しずつ営業を再開させていて、夜、家族揃って明るい部屋で食べたピラフはいつになくとても美味しかったのを覚えている。

 

1週間でライフラインが全て戻った我が家はとても運が良かった方だと思う。そこからは夜まで片付けを進めたりすることもできたし、何よりお互いがしっかり見えて、テレビで随時情報を得られることが安心に繋がった。

 

ただ、中には誤報も多かったし、最低な嘘を流す人もいた。特に大きな余震もなかった中、突然津波が来るという話が流れたことがあった。嘘か本当かわからない中でも不安にかられるのは当然で、念のため車を高いところに移動し、幼稚園の屋上に一時避難したりもした。結果的にそれは誤情報で済んだが、今度こそうちまで水が来るのでは、とすごく不安だった。

 

良くも悪くも余震にはどこか慣れてきているところがあって、地鳴りの仕方で震源がおよそわかるようになっていたし、震度3.4くらいまでは動揺しなくなっていった。私に至っては地鳴りの前の空気変動?みたいなものまで察知できるようになっていた。これは本当に冗談じゃなくて、地鳴りより少し前になんか変な空気感を感じるのだ。丸6年経った今も、家にいるときはその空気変動に気付く。

 

そして3.11からちょうど1ヶ月の4.11、福島震源の震度6レベルの地震が再び襲ってくる。月が変わって受験生になった私は少しずつ勉強をする心の余裕も出来てきて、その時も確か勉強していた。

前述した空気変動、"あ、来そう"という感じが来て、スッと身構えた直後地鳴りがした。明らかに大きいのがくるのがわかる。

 

「来るよ!!!」

 

親も弟も察して、身を隠す。まるでもう一度あの日を繰り返すような揺れが襲って来る。家の中は再びぐちゃぐちゃになった。

さすがに参った。揺れに対する対処については落ち着いて出来たが、これからもこんなでかい余震が来るの?と思うと絶望した。

 

 

幸いそれ以降あのレベルの揺れには遭っていないけれど、ずっと来ると言われてた宮城県沖地震東日本大震災とは別物だというし、熊本地震もあった。首都直下、南海トラフ、常に日本中が大震災と隣り合わせだ。

 

私は今東京で一人暮らし。ご近所づきあいなんてものもほとんどないし、知ってる土地界隈などたかが知れている。そして東京という街。日本の中心。ここが潰れたら日本はどうなってしまうのか?

 

3.11の時も東京では食料や日用品の大量買い占めなどでスーパーがパンクしていたというし、そんな中で私は地震そのものを乗り切ったとしてもどうやって日々をしのいでいくのか。しのいでいけるのか。

 

不可避なものなのは十分わかっている。備えなければならない。仙台を離れて初めて迎えた3.11、そんなことを考えていた。

 

 

今は地震よりも緊急地震速報の音が怖い。前の職場でも2回ほど避難訓練に参加したけれど、あの音も鳴らされたから正直すごく心がしんどかった。

 

一方で、来たな、と思っても緊急地震速報が鳴らなければセーフ、みたいに思ってしまう節がある。無視。特に寝てる時の地震とかはもう、震度3とかあっても朝起きたら地震があったことすら忘れてしまっている感じ。

 

良くも悪くも地震慣れ。

こういう油断も良くない。

 

昨日も福島第1原発メルトダウンに関する特番を見ていたけれど、この件に関しては本当に途方も無い時間がかかることだし、改めてとんでもない事故だと思った。報道されることもかなり減ってしまったけれど、事態はまったくもって収束していないのだ。

 

永遠に会えなくなってしまった人のことも、故郷に帰れない人のことも、何1つ忘れちゃいけない。

 

 

備えあれば憂いなし、が100%そうかと言われたら、そうではないのかもしれない。それでも備えられるだけの備えは必要だし、自分の万が一にも備えて、私はいま日記をつけたり、形に残るものを残せるだけ残そうと思っている。

 

 

思い出すままに書いていったらすごく長くなってしまった…。もっともっと大変な辛い思いをした人が沢山います。でも、私があの日経験して、いまここに書いたことの中からも、何か1つでも、誰か1人でも、受け止めて考えて貰えたら嬉しいです。